16、私の中の般若心経 ~ 菩提薩埵 心の中の天使と悪魔 ~

私の中の般若心経 ~ 菩提薩埵ぼだいさつた 心の中の天使と悪魔 ~

人は誰でもが心のうちに、善と悪があります。

どんなに善人でも悪い考えが少なからずあります。

逆に悪人にも「鬼の目にも涙」という諺があるように、思いやりがなくひどく冷たい人でも時には、他人の苦しみや悲しみに同情して、目に涙を流すこともあります。

人間とは良い考えや悪い考えがいつも頭に浮かぶ生き物です。

池波正太郎の時代劇小説 鬼平犯科帳の鬼平(長谷川平蔵)の言葉に「人間というのは妙な生きものよ。悪いことをしながら善いことをし、善いことをしながら悪事を働く。心をゆるし合うた友をだまして、その心を傷つけまいとする……」

菩提薩埵(ぼだいさつた)

心の中にいる「菩薩ぼさつ」と「夜叉やしゃ

インドの古い言葉のパーリ語で「ボーディサッタ」 さサンスクリット語で「ボーディサットゥヴァ」の音を写した語です。

「菩薩」は、「観自在菩薩」を略した語といわれています。

観音様のように心もすべて綺麗な、お方も存在しますが、容姿が綺麗な方でも心が夜叉のように醜い人間がいているのもこの世の現実です。

この菩提薩埵は、男性修行者にとって女性というのは魅力的で惹かれる存在ですが、おぼれると修行の妨げになるという戒めだと理解するほうが良いみたいです。

また、女性も然りです。

真実の探求

最近では、人間の遺伝子はどこか遠くの星から宇宙人がきて、何らかの目的のため原人を作り、その宇宙人の遺伝子を原人に人工授精させ人間を作ったのではないかと、ネット上で配信されている方がおられます。

その他にも、かなり古い時代から幾多の星から様々な宇宙人も多数、地球に来ていて世界のあちらこちらで原人から進化した人間に知恵を与え、科学技術の進化や文明が築き上げられともいっています。真実は定かではないですが、近年 考古学や科学的な裏付けもされており信憑性を増しています。

海外の人気ドラマのスタートレックにでてくるストーリーが、現実にいにしえの時代からこの地球にあるのかもしれません。日本やギリシャ他の国々などの神話にもSFチックでどこか現実離れしているようなお話が、なぜか現代まで受け継がれてるのも不思議なことです。

しかしながら、このような知識を得たからといっても自分の人生に何の役にも立ちません。ただこういう歴史があったかもしれないというだけです。現代に生まれた私たち凡夫は情報に溢れ、どうも頭でっかちになりすぎて、人間として本当に何が大事かを見失いがちです。

いつかは、人間のルーツが解明される時がくるかもしれませんが、現代に生きる私たち凡夫はこの事実を知ったところで魂は救われません。過去を知って現代や未来に生かすという意味では歴史も考古学も意味のある学問ですが、煩悩に支配され、その知識を生かせなければ何の意味もありません。

近頃 流行りのパワースポット巡りや朱印集め、スピリチュアルというような軽々しく聞こえる言葉などをよく耳にしますが、ほんとうに、人間として真っ当に生きるとはどういうことなのか、罪多き私たちが救われるにはどうしたら良いのか、この真実を探求することの方が大事な様な気がします。

私がよく思うことは、この世は無情であるけれど、全てのものが愛に包まれているという事が真実なのですが、逆にもしもこの世が悪に支配されていたなら、誰もが救われることなく永遠に迷い続けなければならないのです。

これは、如来の深い慈愛があるからこそ成せる業で、ほんとうに良かったことですし、涙がでるほどありがたいことなのだと思うのです。

下記の教行信証(現代語訳)は、鎌倉時代初期に親鸞聖人が著作されたものです

教 行 信 証 総序 (親鸞聖人)

私なりに考えてみると、思い図ることのできない阿弥陀仏の本願は、渡ることのできない迷いの海を渡してくださる大きな船であり、なにものにも妨げられないその光明は、煩悩の闇を破ってくださる智慧の輝きなのです。

ここに浄土の教えを解き明かす機縁が熟し、提婆達多が阿闍世王子をそそのかして父頻姿姿羅王を殺害させたのであります。

そして、浄土往生の行 念仏の救いの目当てが明らかになり、釈尊が韋提希をお導きになって

阿弥陀仏の浄土をを願わせたのであります。

これは、菩薩の方々が仮の姿をとって苦しみ悩むすべての人々を救おうとされたのであり、また如来が慈悲の心から、逆罪の罪を犯すものや神や仏の教えをそしる者や、教えを信じない一闡提のものを救おうとお思いになったのです。よってあらゆる功徳を備えた名号は悪を転じて得に変える正しい智慧の働きであり、得がたい金剛の信心は疑いを除いてさとりを得させてくださる誠の道であると知ることができるのです。

このような訳で浄土の教えは凡夫にも修めやすい、誠の教えなのであり、愚かなものでも往きやすい近道なのです。

釈尊が説かれたすべての教えの中でこの浄土の教えに及ぶものはありません。

煩悩に穢れた世界を捨てて、清らかなさとりの世界を願いながら自力を交え本願を疑い行に迷い真に惑い、心は暗く、知ることは少なく、罪重く、障りが多いものは、とりわけ釈尊のお勧めを仰ぎ 必ず、この最も優れたまことの道に帰依して、ひとえにこの念仏の行につかえ

ただこの信を 尊ぶがよいのです

ああ・・・この大いなる本願はいくたび生まれ変わりを重ねてもあえるものではなく、まことの信心はどれだけ 時を経ても得ることはできないのです。

思いがけず、この真実の行と真実の信を得たのなら遠く過去からの因縁を喜んでください

もしまたこの疑いの網に覆われたのなら、もとのように果てしなく長い間、迷い続けなけらばならないでしょう

如来の本願のなんと・・・まことであることでしょうか

「摂おさ め取って お捨てにならない」ということは、真実の仰せであります。

世に超えてたぐいまれな正しい法であります。

この本願のいわれを聞いて疑いためらってはいけません。

ここに愚禿釈親鸞は喜ばしいことにインド西域の聖典 中国・日本の祖師方の解釈に遭い難いのに今 遭うことができたのです。

きき難いのにすでにきくことができたのです。

そしてこの真実の教・行・証の法を心から信じ如来の恩徳の深いことを朗かに知りました。

そこで聞かせたて頂いたところをよろこび、得させて頂いたところをたたえるのあります。

私たち、罪深い凡夫はいつも善と悪を心に持ちながら生きていますが、この大宇宙は愛に包まれており、悪い考えをもって行動し、その因果で苦悩して何度も失敗すれども、頭を打ったり誰かに諭されたりして気づく時がきます。しかし、それでもわからなければ輪廻転生し、良い方向に進んでいこういこうとする太極の流れが存在します。そして、阿弥陀仏の本願によっていつか救われるようにできています。ほんとうに、この事実はありがたいことです。

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私の中の般若心経 まとめ

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