4、私の中の般若心経 ~ 度一切苦厄(生きること自体が苦しみ) ~

私の中の般若心経~生きること自体が苦しみ~度一切苦厄 どいっさいくやく

人間、どんな人でも多かれ少なかれ不幸の種を持っています。

それは、生まれ持っての定め(運命)もあれば、自分の無知さから引き起こした不幸の種、もしくは第三者に巻き込まれた厄(わざわい)など様々な不幸の種が存在します。

・生まれ持っての定めというのは、男または女で生まれたり裕福な家に生まれたりその逆であったり、障害をもって生まれたり、寿命があったり、何か特別な才能をもって生まれたり、生まれ持っての運が強かったり弱かったりなど自分の努力ではどうしようもないことだと思います。

親の因果が子に報う という諺(ことわざ)がありますが、親のしでかしたことで子供が同じように見られる場合や親が世間一般の常識やモノの道理を知らないため子供は野放し状態で育ち、生きていく上での常識やモノの道理をしらないまま社会にでて苦悩します。

それでも、社会にでてから自分自身で一般常識を覚え周りの人と調和する努力をすれば良いのですが、この努力を怠ると人間関係で苦労し、知らず知らずのうちに自分勝手な人間となり、人から好かれずに孤立した人生を送ったり、度が過ぎると犯罪にまで手を染めることにもなります。

・自分の無知さから引き起こした不幸の種というのは、タバコを吸ったりお酒やジャンクフードを暴飲暴食し、結果的には重い病気にかかるケースもあります。

タバコやお酒、インスタント食品などは身体に悪いという知識があっても、体にどれだけの悪影響があるかを知ろうともせず、飲食したいという欲求だけで体を壊してしまいます。

他にも近親者を事故や病気、自殺で無くされ苦しんでいるかたも多くおられます。

薬やお酒に溺れなかなか止めれずに、苦しみ続ける日々を送り自分自身と闘っている方もおられます。

なんとか、お酒や薬を止めようともがき苦しみ断酒・断薬の会や様々な事情で苦しみを抱えた遺族達のセラピーなどもあり、互いに同じ苦しみをもつ人達に自分が現在どうやって過ごし、どう克服しようとしているかという悩みを皆に打ち明けることで、少しでも苦しみから逃れさせてもらえる場もあります。このような場を設けられ参加するということはほんとうに素晴らしいことですが、しかし、一見同じようにみえる境遇の人達の苦しみは、人それぞれですべて同じ苦悩とは限りません。

今まで生きてきた環境や生い立ち、考え方などは誰一人同じではないということです。

お酒や薬に溺れる過程も人によってはまったく違い禁断症状や意思の強さも異なります。

他者と苦しみが分かち合えることで少しは気持ちが楽になるかもしれませんが、結局つまるところ、自分の苦しみは自分でしかわからず自分自身で克服するしかないように思います。

それ以外にも、経営というものを知らないままに自分の描いた夢で事業をして失敗するケースもあります。

経営をするには、自分がしようとする専門的な知識は必ず必要ですが、それ以外にも経営者としての正しい考え方や経理、税務の知識、人の使い方、時代の流れなどを読まないと必ずといっていいほど失敗します。

経営だけに限らず、何か物事をしようとするときには、必ず前もってのリサーチを怠らず、それが本当に正しいか間違っているか見極め、自分にできるかどうかも判断しなければなりません。石橋を叩いて渡るというような慎重さがないと、取り返しのつかない失敗をするかもしれません。

我が家の災難

去年、私達が車で信号待ちをしていると後ろから猛スピードで追突されました。

この事故で二人とも重傷を負いましたが、幸いにも命には別状がありませんでした。が、ポンタヌママは全身打撲や複数本の肋骨骨折、背骨の圧迫骨折で歩行困難になり、片耳が突発性難聴などに、私は鼻骨骨折と肋軟骨損傷、打撲、頭部に9針縫う怪我、頚椎腰椎捻挫、異臭症などと診断され未だに病院通いの日々を送っています。

数カ月前にキャンピングカーを買い替え、近いうち何処かへ旅をしようと考えていた矢先の交通事故でした。ほんとうに人生は思い通りにならないことが多いですね。

信号待ちをしているとき時速60km以上ノーブレーキで追突された三菱デリカD2(ソリオ)

度一切苦厄 どいっさいくやく

順風満帆に人生を送っている人はいないとは言い切れませんが、おられてもほんの一握りだと思います。

このように、人によっては多かれ少なかれ誰でもが不幸の種をもっており、生きること自体が苦しみなのです。

私は数年前から家事を進んでするようになりましたが、それまでは家のことは力仕事以外なにもしませんでした。家事をしだすと本当に女性というのはすごいなと実感します。

朝起きて、子供のお弁当の支度から洗濯、掃除、地域のコミュニティーの付き合いがあったり他で仕事をしたり家族の健康管理、子供の躾、夕飯のおかずを考えて買い物に行き料理などなど、数え上あげたらキリがありません。多分、殆どの男性は四苦八苦して根をあげるかもしれません。

一般的に男性の脳は長時間集中力を持続できますが一つのことしか物事に取り組めないような単純な仕組みになっていると云われています。それに対し、女性の脳は右脳と左脳の伝達が良いため2つ以上の事を考える能力が優れているといわれています。が、女性の脳には、過去の記憶を繰り返し思い出す癖があります。経験値を蓄積さす一方、負の記憶も思い出し恨みを募らすという一面もあるのです。

このことから、女性のほうがねちねちしているとか、しつこい、恨みを持たれると怖いといわれれる原因なのですが、自分のこれまでの経験を言葉でねぎらって貰うと、負の記憶が正の記憶に変換されるようです。夫婦円満の秘訣は絶えず相手のことを考え感謝しそれを言葉でねぎらうことかもしれません。

話が逸れましたが、女性も男性も家事や子育て、仕事、学校の勉強、就職活動、離婚、ローンの支払い、嫁姑問題、身内や友達、近隣のトラブル、誰かがしでかした後始末などで四苦八苦した経験があると思います。

実はこの四苦八苦とは、仏教用語なのです。

四苦八苦
四苦八苦とは、とても大変とか非常に苦労するという意味があります。

【生苦】狭い参道を通り生まれてくるときの苦しみ

【老苦】年をとる苦しみ 身体の絶頂期は20才 頭の絶頂期は40才と云われています。
老いてくると、身体も頭もいうことがきかなくなってきます。

【病苦】誰しもが、病と向き合うことは辛いことです。

【死苦】生きるために生まれてきているので死ぬことは辛いことです。
この「四苦」に次の四つを足すと「八苦」になります。

【愛別離苦】あいべつりく
愛する人との別れは辛いものですが、死に別れは特に辛いものです。

【怨憎会苦】おんぞうえ
恨みや憎しみをもった人と会うことは辛いものです。仕事や食事を共にしなければならない時は本当に嫌なものです。

【求不得苦】ぐふとくく
思い通りにならないのがこの世の常ですが、欲しいものが手に入らない時や、お金があっても人の心まで買えないときなど人生は思い通りにならないことだらけです。

【五蘊盛苦】ごうんじょうく
つまり、私達が生存すること自体が苦しみなのだとまずは認識すべきだと説いています。
この四苦八苦は、貧しさや金持ちに関係なく誰でもが生きているうえで味わわないとならない苦しみなのです。

このすべての苦しみや厄わざわいを彼岸に渡して安らかな気持ちになれるのですが、その苦しみや厄わざわいから解放していただけるのが、観自在菩薩(観音様)なのです。

観音様が苦しみから救ってくださるということです。

人間はこの世に未練や執着がある限り死んでも救いを求め続ける

今から十数年前、私は人間とはどこからきてどこに向かって行くのか、人はなぜ存在しているのかなど哲学的なことに興味があり暇を見つけては座禅をし瞑想したりキリスト教や哲学書、仏教関連の本をよく読んでいた時期がありました。

ある日いつものごとく、一人で車に乗り人気のない山に行きました。その日は少し気分を変えてみようといつも行く場所には行かずに他にいい場所がないかと探していると車が1台やっと通れるような山道に差し掛かりました。対向車とすれ違うために数百メートル間隔で車がすれ違えるスペースを設けられており、道路脇にも木が生い茂り少し車高の高い車だと側面を木の枝で擦るであろう、あまり手入れされていない山道でした。

アスファルトには杉の枯れた葉が所狭しと落ちており、ほとんど車が通った形跡がないような薄暗い道でした。

車がすれ違うことができるスペースの一つに他よりも少し広い場所を見つけ、ここだと誰にも邪魔されず静かに聖書が読めると思い、エンジンを停止さし落ち着いた気分で聖書を読み始めることにしました。

車を停めてから約2時間ぐらい経った頃、私はいつの間にか聖書を持ちながら寝むってしまいました。

私は聖書の下の方を手で持ちながらハンドルに本をもたれかかせ、車の背もたれを少しだけ倒し、シートに身体を預け眠ってしまっていたのです。

眠ってからどれくらいの時間が経ったのでしょうか、夢とはなぜか全然違う感覚に陥ってしまい、しばらくすると私の持っている聖書をめがけて、いくつもの人の手が私を取り囲むように扇状に迫ってきたのです。

その、いくつかの手が私の持っている聖書に触れるか触れないかというぐらいのところで、私はびっくりして「うわぁぁぁぁぁぁぁ」と叫びましたが、声にならないまま飛び起きました。

眼を開け四方に何か異常がないかを確認し、運転席の背もたれのレバーを引き起こし、もう一度まわりをキョロキョロ見渡すと同時に、背筋がゾクッと寒くなり全身に鳥肌が立つのを感じ、もうすべての髪の毛がMAXに逆立ちました。

この場所は、ほんまにヤバいと本能的に危険を感じ、とりあえずここから早く逃げなければということしか考えつきませんでした。

そして、聖書を助手席に投げるようにして置き、早々とエンジンをかけシートベルトをする余裕もなく、尋常じゃないスピードで山を下りました。

それからというもの、この山に近づくことは一切ありませんでした。

その時の経験をポンタヌちゃんに話すと、

『そんな山で寝てるからや!』

「えっ!?それだけ? もっとなんか こうこうこでそんなことになったんやとか、次から気を付けやとか、なんかもう少し説明とかアドバイスをしてくれてもいいやん」

『だれも、そげな山で昼寝するやつなんかおらん!』

「・・・苦笑」

まあ、私なりにあの時のことを考察すると、この世に未練や執着を残している魂が聖書に救いを求めてきたのだと思います。

私はこの出来事で、人間というものは、生きている時も死んでからも、迷い続け救いを求める生き物なのだと体感する経験になりました。

私の中の般若心経 まとめ

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